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ハインリヒ7世(Heinrich VII., 1211年 - 1242年2月10日〔THE LEPROSY OF HENRY VII (1211-1242), SON OF FREDERICK II AND KING OF GERMANY (2015年12月閲覧)〕)は、ホーエンシュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の長男。母はアラゴン王女コンスタンサ(コンスタンツァ)。1220年から1235年までドイツ王の地位に就いていたが廃位されたために正統の国王として認められず、通常は「ハインリヒ(7世)」と括弧書きされる〔西川「後期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、276頁〕。異母弟にコンラート4世、サルデーニャ王エンツォ、アンティオキア公フリードリヒ3世、マンフレーディらがいる。さらに異父兄にハンガリー国王ラースロー3世がいる。 == 生涯 == 1211年にハインリヒはフリードリヒ2世とコンスタンサの子としてシチリア島で生まれる。1212年に神聖ローマ皇帝オットー4世の対立王に選出されたフリードリヒ2世がシチリア島を発つ際にハインリヒがシチリア王位に就けられ、コンスタンサが摂政とされた〔カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』、70-74頁〕。フリードリヒ2世がアーヘンで神聖ローマ皇帝に即位した後、ハインリヒはコンスタンサとともにドイツに移住する。1217年にハインリヒにシュヴァーベン公位が授与され、1219年にはブルゴーニュ王国の執政権が移譲された。 フリードリヒ2世はドイツ王が持つ特権の放棄を諸侯に約束し、その代償として1220年春のフランクフルトの帝国会議でハインリヒがドイツ王に選出される〔カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』、120頁〕〔西川「後期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、263頁〕。フリードリヒ2世は神聖ローマ皇帝即位に際して皇帝権力とシチリア王位の一体化の断念を約束していたが、彼の後継者であるハインリヒがドイツ王とシチリア王を兼任したことでシュタウフェン家の下での帝権と王権の一体化が実現する〔。ケルン大司教エンゲルベルト、バイエルン公ルートヴィヒ1世の保護に置かれた後、1228年からハインリヒは親政を開始する〔西川「後期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、271頁〕。しかし、ハインリヒはフリードリヒ2世から完全に独立した状態で政務を執ることができず〔、ハインリヒの立場は属州の総督に例えられている〔菊池『神聖ローマ帝国』、116-117頁〕。 ハインリヒが20歳に達したころには、父のフリードリヒ2世と不仲であることが知れわたっていた〔カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』、405頁〕。ハインリヒがフリードリヒ2世の政策に疑問を抱いた理由としては、イタリアでの王権強化策とドイツでの諸侯の地位を尊重する相反する姿勢、親子のカトリック信仰心の差異、ドイツの財政難が挙げられている〔藤沢『物語 イタリアの歴史』、102-103頁〕。また、ハインリヒはボヘミア王国の王女アネシュカ(アグネス)との結婚を望んで、既に子をもうけていた妃のマルガレーテとの離婚を考えていたが、ハインリヒの計画はマルガレーテの実家であるオーストリア公国との婚姻関係の構築を志向するフリードリヒ2世の意向に反するものだった〔カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』、407頁〕。アネシュカが修道女となったことでこの問題の決着はついたが、父子の間にはわだかまりが残った〔。リエージュの市民と司教の間に諍いが起きた時、ハインリヒは市民の側に立ったため、ドイツ諸侯の反発を招いた〔カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』、406頁〕。1231年に諸侯の主導で開催されたヴォルムスの集会で、ハインリヒは「諸侯の利益のための定め」を発布した。「諸侯の利益のための定め」によって既にフリードリヒ2世が聖界諸侯に与えていた特権の多くが世俗諸侯に拡大され、ドイツ王権は制限される〔西川「後期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、272頁〕。 フリードリヒ2世はハインリヒとの話し合いが必要だと考え、ハインリヒに1231年11月のラヴェンナでの帝国会議への出席を求めるが、会議の場にハインリヒは姿を現さなかった〔カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』、405,407頁〕。周囲に促されたハインリヒは1232年のアクイレイアの帝国会議に出席し、10数年ぶりにフリードリヒ2世と対面するが、父子の立場からは叱責を、皇帝と王の立場からは多くの要求を受けた〔カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』、410頁〕。数週間後に帝国会議の場はチヴィダーレに移され、会議の場でハインリヒはドイツ諸侯と教皇への従属を約束させられた〔カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』、410-411頁〕。 教皇庁の働きかけに応じ、1234年にハインリヒはロンバルディア同盟と結託して反乱を起こした〔藤沢『物語 イタリアの歴史』、103-104頁〕〔菊池『神聖ローマ帝国』、117-118頁〕。1234年9月にフリードリヒ2世がドイツに向かったことを知ったハインリヒは、反対派の人間を集めてアルプスの峠の封鎖を試みた〔西川「後期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、275-276頁〕。しかし、ハインリヒの味方はミニステリアーレス(家士)のみで、ハインリヒを支持する諸侯は皆無であり、同盟者であるロンバルディア同盟の軍隊も防衛戦を得意としていても侵略戦には不慣れだった 〔菊池『神聖ローマ帝国』、118頁〕。フリードリヒ2世は軍隊を伴わずドイツに入り、財貨を投じて反乱を解決した〔カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』、436-437頁〕。1235年7月2日にハインリヒはヴィンプフェンの王宮に出頭し、フリードリヒに降伏する〔。7月4日のヴォルムスの帝国会議で、ハインリヒは王位と全財産を没収された〔。ハインリヒが廃位された後、弟のコンラートが新たなドイツ王に即位する。 ハインリヒはハイデルベルクに拘禁された後、父によって目を潰され〔〔、アプーリアに移送された〔カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』、438頁〕。ハインリヒはメルフィ近郊のロッカ・サン・フェリーチェの獄中で6年間過ごし、に移されることになるが〔、護送の途上で乗馬と共に断崖から落ちて絶命した〔〔〔藤沢『物語 イタリアの歴史』、104頁〕。ハインリヒの死は事故ではなく、彼の意思による自殺だと考えられている〔〔〔〔。ニカストロへの移送の前、フリードリヒ2世はハインリヒの赦免を決定していたとも伝えられ〔、父としてはその非業の死を悼んだという〔菊池『神聖ローマ帝国』、118-119頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ハインリヒ7世 (ドイツ王)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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